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「喧嘩芸骨法とプロレスの融合と対立」堀辺正史師範が残した日本格闘界の遺産の話
喧嘩芸骨法とプロレス
の関係性と、骨法を使うプロレスラー、その後の骨法…について解説いたします。
”喧嘩芸骨法”とは、日本の武道家である堀辺正史(1941年10月14日 – 2015年12月26日)が創始した格闘技です。
堀辺は、自らの家伝の古武術である”骨法”を実戦的に改良し、喧嘩や他流試合に明け暮れた経験をもとに、独自の技術や理論を確立したものです。
喧嘩芸骨法は、古武道を実戦的に改良したもので、相手の骨や内臓にダメージを与える技を多く持ちます。
そのスタイルは、相手の手足と自分の手足が触れ合うことを基本原則とし、近距離からの当身技や投げ技を主体としています。
また、堀辺は「徹し」と呼ばれる秘技を用いて、相手の内臓や骨に直接ダメージを与えることができると主張しています。
一方”プロレス”とは、主にリング上で行われるエンターテイメント性の高い格闘技です。
プロレスは、打撃技や投げ技、関節技などを使って相手を倒すことを目的としていますが、その多くは事前に打ち合わせされたシナリオに沿って展開されます。
プロレスは、観客の感情を揺さぶるために、ドラマチックなストーリー展開やキャラクター設定、演出なども重要視されています。
喧嘩芸骨法とプロレスの融合の歴史
同じ格闘技でありながら全くの別路線である喧嘩芸骨法とプロレスですが、骨法の技術と話題性に注目したのが当時の新日本プロレス(※)でした。
※1980年代、ザ・グレート・カブキが、いち早く骨法の動きを取り入れた技(トラースキック)で快進撃を重ねたのが最初だと言われています。
当時の堀辺師範はボクシングやムエタイなど、いわゆる異種格闘技との闘いを想定した「骨法新武術」の確立に心血を注いでおり、空手、カンフー、ボクシングなどと他流試合をおこない無敗を誇っていました。
1986年、新日本プロレスのトップであるアントニオ猪木は“モハメド・アリに勝ったボクサー”レオン・スピンクスとの異種格闘技戦を控えており、堀辺師範の指導による実戦的スパーリングで「踏み蹴り」「スリ蹴り」「浴びせ蹴り」などを習得。試合に勝つことができました。
これを機に堀辺師範は”新日本プロレスのアドバイザー”として関わりを持つようになりました。
中でも山田恵一(獣神サンダー・ライガー)と船木誠勝(当時15歳)は、誰よりも積極的に骨法道場に通い技術を取り入れました。
その結果「掌打」や「逆回し蹴り」などは両選手の代名詞的な必殺技となり、プロレスや総合格闘技の試合で大活躍しました。
堀辺正史のプロレス批判。新日本と断絶!
しかし、堀辺正史は後に新日本プロレスと断絶することに…
自著やビデオなどで”プロレス”に対する批判的な見解を述べています。
堀辺は「プロレスは実戦的な格闘技ではなく、ショーである」と主張し、プロレスラーが喧嘩芸骨法の技を真似することに対しても否定的であり「彼らは本物の骨法ではなく、形だけの骨法をやっている」と言っています。
堀辺正史はプロレスのことをよく知らなかったのでしょうねw(^^;
喧嘩芸骨法はイベント競技の世界へ。
その後、堀辺正史は、1994年にバーリトゥード時代の幕開けに合わせて、喧嘩芸路線から脱却し、より競技性を重視したスポーツ的な格闘技路線に変更、「骨法の祭典」という格闘技イベントを開催し、他流試合や異種格闘技戦を行い成功を収めました。
また、堀辺は「グレイシー柔術の秘密」という本で、当時最強の格闘技だと言われていた”ブラジリアン柔術”について分析し、「骨法不動打ち」という技でグレイシー柔術に対抗することを宣言していましたが、試合が実現することはありませんでした。
以上のように、喧嘩芸骨法とプロレスの歴史的関係性は、協力と対立の両面がありました。
堀辺正史は、現在のプロレスに大きな影響を与えた人物であると同時に、プロレスに挑戦し続けた武道家でもあったと言えるでしょう。
※堀辺正史(1941年10月14日 – 2015年12月26日)は、2015年12月26日に心不全で亡くなっています。ご冥福をお祈りいたします。
喧嘩芸骨法の現在は、日本武道傳骨法會として武術指導をはじめ、護身術や骨法式整体術として広く活動されているようです。
追記:骨法が出てくる格闘技マンガのおすすめ
ちなみに、骨法が出てくる格闘技マンガのおすすめは「闘翔ボーイ(著:竜崎遼児)」です!
プロ野球選手からプロレスラーに転向した主人公が格闘王を目指す物語ですが、骨法との出会いが主人公を大きく変えていきます。
骨法だけでなくプロレス、格闘技が好きなファンにも読んでほしい名作です。(Kindle版は0円。4巻~無料サンプルで読んでみて下さいw)